元パチンコ必勝ガイド所属で現在フリーのパチンコライターとして活躍中の栄華さん。
最近のライターとしては珍しいパチンコを打たなくても、新台説明や出玉、演出などの紹介ではなく、昔のパチンコの良さや懐かしい写真を撮っている少し変わったライターです。
古き良きパチンコの伝道者と言っても過言ではありません。
今日はそんな栄華さんの趣味の音楽活動や昔のパチンコデビューなどについて調べて来ました。
<目次>
栄華のwiki的プロフィール!
- 名前:栄華(えいか)
- 出身地:京都府
- 誕生日:1970年8月27日
- 血液型:O型
- 所属:フリー
元パチンコ必勝ガイドで現在フリーのパチンコライターとして活躍中の栄華さん。
大学は京都女子大学文学部と高学歴で、しかも最終学歴は作業療法士の専門学校だそうです。
もともとパチンコ必勝ガイドのデーターとりをしていたそうですが、現在はフリーとして活動し色々なパチンコ店の写真を撮っている事が有名です。
その写真は全国47都道府県2500軒のパチンコ店分で自分で調査し実際に現場に行き写真を撮っているそうです。
業界では珍しいパチンコを打たなくても面白い演者の一人で古き良きパチンコの伝道者と言っても過言ではありません。
その性格は優しすぎると言われ、お年寄りが捨てる潜伏確変が可愛そうで取ることが出来ないそうです。
また攻略打ちと言われる技術介入や保留止めも問題になりつつある中で、この問題を考え悩んだ栄華さんはパチンコでも技術介入をしないように気を付けているそうです。
まだ、厳密に禁止令が出ている訳では無いパチンコの技術介入を申し訳ないと言う気持ちで封印しているそうです。
ちなみに本名は公開されていませんが、下の名前はあす香だそうです。
栄華ヒストリー
栄華さんは幼少期は8才頃から小説や物語のような物を書き始めたそうです。
空想や妄想をする妄想族、比較的ボーっとしていて何を考えているか分からないタイプだったそうです。
幼稚園の時にドラマを見ていて、演者が死ぬシーンを見て、本当に死んだと思い大泣きし母親に芝居だからと慰められたそうで、栄華さんはその時に人が死ぬと感動すると学んだそうです。
また栄華さんはシツケが厳しい家だったそうで、ストレスが溜まっていたようで、その反動で空想や妄想したり、現実で自由が少ない分、頭の中で発散していたそうです。
栄華さんは引越しが多い人生だったようで小学校だけで3回、転校を経験したそうです。
小学生にとって転校自体が子ども心に傷を付ける事が多いようで、栄華さんもその一人だったようです。
今まで中の良かった友達と離れ、次の学校で友達が出来るか不安で栄華さんは人付き合いが怖いと思っていたそうです。
栄華さんは人から嫌われる事はイヤだったそうですが、転校時にハブられていた同級生と仲良くなると他の同級生は辞めた方が良いと言ってきたそうですが、栄華さんは正義感を出し関係なく仲良くなったそうです。
普通に考えたらカッコ良いのですが小学生の時の話で後日談があり、その友達は凄い嘘つきで栄華さんも若干困ったそうです。
しかし栄華さんは、簡単に人を嫌いになってはいけないと思い、嫌な部分よりも良い部分を探す努力が大切と感じたそうです。
とても小学生とは思えない発想です。
中学時代は、文芸部に所属し小説やポエムのような物を書いていたそうです。中学に上がる前から書いていたので当たり前の流れにも感じますが、文芸部は人気が無く部員が少ないので栄華さんが部長をされていたそうです。
高校時代は3年生の時に趣味に没頭していたようで、休みがちになり単位をギリギリの生活を送っていたそうです。
そうすると大学受験に失敗し、留年し予備校に通っていたそうです。
しかし、予備校の近くにパチンコ店があり予備校の入学式の後に一人で初めてのパチンコデビューで三洋のスタジアムと言うパチンコで500円位勝ったそうです。
それから、ろくに予備校に通わずパチンコに通っていたそうです。
当時は羽根物は安定していたそうですが、攻略雑誌で一発台の釘が空いていたら良いと言う記事を見て、栄華さんは一発台コーナーで定規をポケットに入れて台に当てながら攻略していたそうです。
その定規効果は余りなかったそうですが、たまたま少し勝った程度だったそうです。
冷静に考えると釘調整は0.01ミリ単位などで、ざっくり定規で図れるほど甘い物ではないので栄華さんの攻略は上手く行かないのは当然ですが、試したくなるものです。
ライターのオイルで勾配を測ろうとしたり、指で釘の広さを測ったり実際、意味が無いと分かっていてもやってしまうことはありますよね。
そんなパチンコ店に入り浸っていた栄華さんですが、予備校生と言う中途半端な状態がいやで勉強し見事、京都女子大学文学部に入学します。
大学時代は劇団に入り役者をしていたそうです。
もともと文芸部の栄華さん、シナリオ等裏方を想像しましたが想像の斜め上に進んでいきますwww
ちなみに大学時代のパチンコは負けまくっていたそうです。
大学生になり生協でアルバイトをしていた栄華さんですが、給料はパチンコに注ぎ込み負けてもこりずにエンジョイ養分パチンコを繰り返していたそうです。
そんな大学を卒業した栄華さんは四日市のケーブルテレビに就職しディレクターになり、番組を担当し台本、取材、編集、ナレーターを全てやられていたそうです。
その結果NHKの「ケーブルテレビ自主制作大賞」で奨励賞を取ったそうです。
成果を上げ仕事にもヤリガイも感じていたそうですが1日20時間くらい働いていたそうで20年後30年後も仕事を続けている栄華さんの姿が想像付かなかったそうで28歳の時に退職します。
退職後は作業療法士の資格をとりために専門学校に入学します。
その時、栄華さんは作業療法士の仕事のことを詳しくしらず、専門学校の実習の時に初めて仕事をしったそうです。
なぜ作業療法士だったのかは分かっていませんが、将来的に福祉に時代が来ることを予想し介護士や看護師ではなく、少しヒネリを加えてくる所が栄華さんっぽいとも思えますwww
その専門学校の時に出会った先生と結婚したそうです。
旦那さんは3ヶ月だけ講師を務め、その後は青年海外協力隊としてヨルダンに行く予定だったそうですが、栄華さんの熱烈アプローチで結婚し決めてからヨルダンに行かれたそうです。
海外での遠距離恋愛と言うか単身赴任のようなものになり一番大変だったのは電話代だそうで国際電話で月に5万以上かかっていたそうです。
また電話の弊害は料金だけでなく時差も大変だったそうです。
ちなみに日本とヨルダンの時差は約7時間で仕事が終わり20時くらいに連絡したとき、ヨルダンは夜中3時のようです・・・
おそらく栄華さんが旦那さんに合わせていたと思いますのでヨルダン20時の時は日本13時くらいで栄華さんは昼からの予定は立てられなかったかもしれませんね。
2002年の時に再度パチンコブームが来たらしくモンスターマンションをにハマっていたようです。
そんな時にパチテレに何度か出演する機会があり、それをキッカケに白夜書房のデーター取りを仕事をしながらしていたそうです。
栄華さんが33才の時で、その後8年くらいデーター取りをしていたそうです。
データー取りはとても大変だとかおりっきぃ☆さんも言っていました。
当サイトでも過去にかおりっきぃ☆さんについて記事にさせていただきました。
こちらがかおりっきぃ☆さんについて書いた記事になります。
かおりっきぃ☆さんのプロフィール等はこちらで確認してみてください!
新台のデーターとりがメインなので季節に関係なく先頭入場が基本で屋外での寝袋も経験されたそうです。
また旦那さんに協力してもらい一緒に入場待ちをしたこともあったそうです。
並び順なら先頭で並べば良いですが抽選入場の時は仕事のために一緒番号を取っていたのかもしれませんね。
そんなある日、お爺さんの葬式の後に見た廃墟のパチンコ店の景色を見て何とも言い表せない感情になったそうです。
栄華さんのとってはお爺さんと一緒に行ったパチンコ店では無いそうですがお爺さんが好きだったパチンコと言う事で儚く懐かしく特別な物に感じたそうです。
その後、廃墟したパチンコ店に留まらず古いパチンコ店に行き写真を撮るようになったそうです。
その写真はツイッタ―などにより多くのライターやパチンコファンにささり人気ライターとして注目されるようになります。
その後、企画や動画でも栄華さんらしいパチンコ以外の紹介をするパチンコライターとして時代の移り変わりの中にも沢山の良い物や想いであること、古き良きパチンコの伝道者のような活動され現在に至る。
昔のパチンコデビューとは
栄華さんは小学校低学年の時にそろばん教室に通っていたそうです。
栄華さんは行きたくなかったそうで親を騙して玩具屋さんで遊んでいたそうです。
当時のゲームで「ピカデリーサーカス」と言う10円で遊ぶ機械で当たりとメダルが出る機械で遊んでいたようで栄華さんはのめり込んでいたそうですwww
小学生なのでお金はなく稼ぐ方法も限られていますが栄華さんは親の財布から拝借していたそうです。
それが親にバレた時は本当に恐かったそうです。
そこまでして遊ぶたかった幼少期、機械の性質上依存性が高かったのか、栄華さん本人が依存しやすい体質だったのか分かりませんが、栄華さんは普通の小学生では無かったようです。
そんな栄華さんの初めてのパチンコは縁日の羽根物だったそうで、昔はお祭りの時にお爺さんと一緒に露店でパチンコデビューだったようです。
夏休みに姉妹で福島の実家に行かれていたそうで栄華さんが10才くらいの時にお爺さんが凄い楽しそうにパチンコをされていて興味をもったそうです。
お爺さんはギャンブル全般好きだったようで、パチンコ、パチスロ、花札、競輪などをされていたそうで、栄華さんが田舎に帰省すると色々な人からお小遣いが貰え、その小遣いでパチンコをし増えた玉をお爺さんに見せると褒められていたそうです。
もともと玩具屋さんでメダルを増やすゲームをしていた栄華さんにとっては、パチンコで玉を増やすことは難しく感じなかったようで、玩具屋の機械の延長戦でパチンコの羽根物を体験し、新鮮で楽しかったそうです。
羽根物が楽しいと言うことと、お爺さんと一緒に楽しめたことが大きな要因にも思えます。
その時に、栄華さんは早く一人でパチンコが出来るようになりたいと思ったそうです。
冷静に考えれが小学生なので、子どもだけでパチンコを遊ぶことは出来ませんが保護者同伴なら親や大人と一緒に遊ぶことが出来た点では今は無き昔の良い時代で、失われた文化ではありますが決して全てが悪いとは言えないと思います。
趣味の歌について
栄華さんが音楽に興味を持ち出したのは中学2年生の時に初めて出来た親友の影響だそうです。
その友達は兄弟がいて洋楽を教えて貰っていたそうで、その友達の影響を受け栄華さんも洋楽を聴いていたそうです。
その出来事は、栄華さんにとって人生観を変える出来事だったようです。
そんな栄華さんが当時ハマっていた歌手は大江千里さんで、最初はラジオを聴いていて曲と詞に魅了されたそうで、ファンクラブまで入っていたそうです。
また高校生の時にCDを買うとコンサートのタダ券を配っていたそうです。
その時は余り考えず軽い気持ちで見に行ったそうですが、実際行ってみて栄華さんは物凄い衝撃を受けたそうです。
そのバンドはミディレコードと言う坂本隆一さんもいたレコード会社で、初めての大きなコンサートで、そのバンドにとっては地元でのコンサートだったようで、気合いも入っていて栄華さんはカッコ良いと思い、大好きになったそうです。
そのバンドはボ・ガンボスと言い栄華さんはラジオやテレビをチェックしたりラジオのリスナーかなの投票企画では、栄華さんが沢山のハガキを買いクラスの人たちにお願いして組織票を作っていたそうです。
そんな事をしていると、そのバンドに興味を持った友達が増えて共通のファンとして仲良くなれたそうです。
また昔はデモテープのフライヤーと言うのがあったそうで、電話しデモテープが欲しいと伝えるとデモテープがある場所を教えてくれえたり送ってくれたりしていたそうです。
ファンからして見れば神対応で、今では想像出来ませんし、そのデモテープ自体にプレミアが付く物もありそうです。
おそらく販売していたと思われますが、学生の栄華さんが大金を払っていたと考えにくいので余り高い物ではなかっと思われます。
その経験が今ではバンド、テンゴのボーカルとして、また作詞の作成にも生かされています。
パチンコ関連で古き良きパチンコや景品など少し変わった物が多いようです。
またそれが栄華さんの良い所なので、羽根物や昔の景品を知っている人は勿論、知らない人も楽しむ事が出来ます。